小堀ブログ

初心者。

ハルキスト男性はなぜ“ヤバい”のか〜『ノルウェイの森』からみる誤読としての村上春樹

※ここで言及される「ハルキスト」とは、SNS上の口コミや私自身の経験を総合し、共通項に基づいて典型化したものとご理解ください。

 村上春樹を愛読する男性、すなわちハルキスト男性の人物像にまつわる言説は、いまだ印象論の域を出ていない。たとえば生活スタイルにおいては「ジャズを聴いてビールを飲んでいる」、性格においては「孤独を好みスカしている」といった、いかにもそれらしいイメージが繰り返し語られている。

とりわけ、男性が女性をどう扱うかという「女性観」を巡るハルキスト像に関しては論争が絶えない。「女性に幻想を抱いている」つまり「ハルキスト男性は”ヤバい”」という理解が主に女性の口コミにより共有されているそうである。では、なぜハルキストは”ヤバ”くなってしまうのだろうか?しばしばSNS上で議論されるように、村上作品そのものが女性蔑視的であるからだろうか。

しかし、村上作品は「ミソジニー」であると括り入れ、その読者もまた「ミソジニー」なのだと断じるのはいささか性急に過ぎるだろう。なるほどたしかに、村上春樹の描く女性描写は率直に言って「気持ち悪い」。だが同時に、作品世界における女性たちは、巷で言われるような「男性に都合の良い女性」にとどまらず、むしろそれ以上の存在として、主人公に対して過剰なほどの経験を語りかけているのではないだろうか。

今回のブログでは、『ノルウェイの森』を男性中心の語りを介して女性の多様な経験が提示される物語として読み解き、「ハルキスト男性が”ヤバい”」とされる理由は突き詰めれば彼らの読解態度、すなわち誤読にあることを主張する。

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それでは、“ヤバい”ハルキストとはどのような人物を指すのだろうか。村上作品を愛読している男性のすべてが問題なのではない。むしろ作品に内在する違和や限界を含めて享受している読者も少なくないはずである。

今回問題とするのは、村上作品における男性主体の語りを、その構造的な前提を捨象したまま内面化してしまう読者である。言い換えれば、語りの「限界」を読み落とし、その結果として表層に現れる態度や関係のあり方のみを、ひとつの生き方のモデルとして採用してしまうタイプである。その「限界」とはいったいどういうものなのか。このことについて明らかにしていくことで、ハルキストの”ヤバ”さの正体も浮き彫りになるだろう。

では、この「限界」は具体的にどのようなかたちで現れているのだろうか。これを明らかにするためにまず、『ノルウェイの森』における主人公の認識上の「限界」を見ていきたい。

まず、『ノルウェイの森』の主人公・ワタナベは、親友キズキの死という決定的な喪失体験によって、他者との関係に断絶感を抱えた人物として描かれている。キズキの死によって「まわりの世界の中に自分の位置をはっきりと定めることができな*1」くなったワタナベは他者と深く結びつくことを回避し、一定の距離を保つことで自己の均衡を維持しようとする。その結果、彼の語りは常に「関係の外部」に立つ視点を帯びることになる。このとき重要なのは、その距離が単なる性格的傾向にとどまらず、物語全体の認識枠組みを規定している点である。つまり、他者の内面に直接触れることができず、語られる他者像はあくまで主人公ワタナベの理解可能な範囲において再構成されたものにすぎない。それは37歳の主人公が、学生時代の恋愛を回想するという構成をとることでより強調されている。『ノルウェイの森』における語りは、はじめから他者を完全には捉えきれないという認識上の「限界」を内在させているのだ。

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 次に、先ほど述べたように、『ノルウェイの森』には、自己の内側に留まり他者の経験に触れることができないという、認識上の「限界」が主人公の語りに組み込まれる構造を有していることを確認したうえで、この物語構造が、主人公ワタナベの女性観にどのように影響していているのかを見ていこう。

下に『ノルウェイの森』に関する興味深い2ちゃんねるコピペネタを引用する。

親友が突然自殺したお。そいつの彼女(直子)が残ったので、ノリでオマンしておいたお。でも直子はメンヘルで施設に入ったお。よく分からないけど、直子は大事な女性だお。とりあえず大学に入ったので、ナンパしてオンしまくったお。好きでもない女とオマンコするのってむなしいお。大学で、ミドリって言うへんな女と知り合ったお。俺には直子がいるし、ミドリにも彼氏がいるのでオンコはしないお。時々、直子の施設に行って手コキとかフェラしてもらってるから満足お。そしたら、突然に直子が自殺したお。悲しいから旅に出るお。帰ってきたら、直子の世話係の既知外ババアが俺んちに来たお。とりあえず、オマンコしたお。そーしたら、何もかもふっきれたお。もう、必死にミドリとオマンコしにいくお。ミドリ「落ち着け猿」

終わり*2

これは、『ノルウェイの森』のあらすじを、極端に単純化し、性的関係と出来事の連鎖だけで記述したネタ投稿である。そこでは、親友の死や女性たちの心的な問題といった要素が、すべて軽薄な出来事の連続として処理され、最終的には主人公の欲望の充足へと回収される構図が強調されている。

言うまでもなく、これは作品そのものの正確な理解ではない。しかし重要なのは、このような戯画化が成立してしまう点にある。すなわち、物語の出来事のみを抽出し、語りの構造に孕む非対称性を捨象することで、作品はこのようにも読めてしまうのである。

ここで削ぎ落とされているのは、作品内で提示されているはずの女性たちの経験の多様さや、それを掬い取れない主人公の認識上の「限界」である。にもかかわらず、そうした要素が見えなくなったとき、残るのは関係の表層と欲望の運動だけであり、それは結果として、女性を単なる役割や機能へと還元する読みへと接続される。

この意味で、このネタ投稿は単なる悪ふざけではない。むしろそれは、作品の「側面」すなわち語りの表層だけを取り出した読みの極端な形式であり、ハルキスト的誤読がどのように成立するかを、逆説的に示しているのである。

『ノルウェイの森』への書評として吉本隆明は、「作品の主調音になっている主人公「僕」と直子との愛が、性器愛の不可能として描かれていることは注目に値する。わが近代文学の作品で、男女の性器と性交の尖端のところで器官愛の不可能と情愛の濃密さの矛盾として、愛の不可能の物語が作られたのは、この作品がはじめてではないかとおもわれる。」と述べる*3。ここで指摘されているのは、主人公による男根を中心とした語りが、現実の女性関係である直子との間で齟齬が生じているということである。つまり、『ノルウェイの森』でえがかれているのは、単に主人公の欲望を巡る恋愛メロドラマではなく、主人公と女性登場人物との認識の「限界」を浮き彫りにする、他者との「わかり合えなさ」が展開される物語なのである。

しかしながら『ノルウェイの森』が刊行された1987年当時、村上自身のアイデアにより帯文に「100%の恋愛小説」というキャッチコピーが付けられたことは、多くの読者のミスリード(ハルキスト的読解)を誘っただろう。実際、島村輝が指摘するように、この売り文句によって「〈恋愛小説〉という枠組みを与えられて読み解かれる運命を担ってしまった*4」のであり、批評や研究の多くが、恋愛関係と切り離せないものとして『ノルウェイの森』を読み解いてきた側面もあるのだ*5

村上は当初、「これは100%のリアリズム小説です」と書くつもりであったそうだが、どういうわけか、主人公の語りを強調した「恋愛小説」のほうを選び取った*6。しかし私が本稿で明らかにしたいのは、「リアリズム」と呼ばれる側面、すなわち主人公の認識内の外部にある女性登場人物たちの経験である。

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 それでは具体的に、主人公と女性登場人物との「わかり合えなさ」が、いかなる認識のすれ違いとして現れているのだろうか。ここで注目すべきなのは、主人公の語りが捉えきれなかった側面が、どのように女性たちの経験として提示されているかという点である。

とりわけ直子の経験は、この物語における「理解の不可能性」を最も端的に体現している。彼女は物語の初期から一貫して、キズキの死という出来事を契機に、言葉によっては回収しきれない喪失と分裂を抱えた存在として描かれる。重要なのは、その苦しみが単に「内面的で繊細なもの」としてロマン化されているのではなく、むしろ言語化それ自体を拒むようなかたちで現れている点である。

直子はしばしば自身の状態について語ろうとするが、その語りは断片的であり、因果的にも整序されていない。彼女の言葉は、説明や理解へと向かうというよりも、むしろ「語ろうとする試みの失敗」を反復しているかのようである。このとき読者に提示されているのは、ひとつの内面の透明な開示ではなく、「そもそも他者には届かない経験」がどのように語りとして現れるのかという過程そのものなのである。こうした直子とワタナベとの間の共有不可能性は、物語冒頭部での野井戸の話に象徴される。

そうだ、彼女は僕に野井戸の話をしていたのだ。そんな井戸が本当に存在したのかどうか、僕にはわからない。あるいはそれは彼女の中にしか存在しないイメージなり記号であったのかもしれない––––あの暗い日々に彼女がその頭の中で紡ぎだした他の数多くの事物と同じように。(中略)僕はその井戸の様子を細かく描写することだってできる。井戸は草原が終って雑木林が始まるそのちょうど境い目あたりにある。大地にぽっかりと開いた直径ーメートルばかりの暗い穴を草が巧妙に覆い隠している。まわりには棚もないし、少し高くなった石囲いもない。ただその穴が口を開けているだけである。縁石は風雨にさらされて奇妙な白濁色に変色し、ところどころでひび割れて崩れおちている。小さな緑色のトカゲがそんな石のすきまにするするともぐりこむのが見える。身をのりだしてその穴の中をのぞきこんでみても何も見えない。僕に唯一わかるのはそれがとにかくおそろしく深いということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒が一世の中のあらゆる種類の暗黒を煮つめたような濃密な暗黒がつまっている。

「それは本当に本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら言った。彼女はときどきそんな話し方をした。正確な言葉を探し求めながらとてもゆっくりと話すのだ。*7

やや冗長な引用をしたのは、ここに主人公ワタナベと直子との認識の差異が鮮やかに描写されていると思えるからだ。二人にとってこの井戸は、その中心にぽっかりと誰も底を知ることのできない穴を穿たれたブラックホールである。直子は自身の精神の深淵なる野井戸を、それを自分でも正体のわからないものとして慎重に言語化しようとしているが、あくまでも抽象的イメージにとどまっている。ところがワタナベは、「僕はその井戸の様子を細かく描写することだってできる。」と、井戸の周辺の風景を自らでっち上げてしまっているのである。ここにおいてワタナベが描写した周辺風景に対しての直子の深淵性への理解度の落差が明るみになっているのである。

さらに決定的なのは、直子の経験が身体的次元と強く結びついている点である。吉本が批評した通り、彼女にとって性は、単なる親密さの表現ではなく、喪失と不在をめぐる根源的な裂け目と結びついている。「もし私が一生濡れることがなくて、一生セックスができなくても、それでもあなたずっと私のこと好きでいられる?ずっとずっと手と唇だけで我慢できる?それともセックスの問題は他の女の人と寝て解決するの?*8」と直子が問うように、性的な接触はむしろ関係の回復や統合をもたらすものではなく、逆にその不可能性を露呈させる契機として機能している。ここで起きているのは、欲望の充足ではなく、「触れようとすること」がそのまま断絶を露わにしてしまうという逆説である。

また、レイコの語りにおける直子を見れば、療養所という日常の中で生きている存在として描かれる。彼女は直子の体調の波、些細な言動、対人関係の機微といった、きわめて具体的で時間的な変化の中にある直子を見ている。そこでは直子は「謎めいた女性」ではなく、むしろ調子の良い日も悪い日もある、不安定さを抱えたひとりの人間として現れる。重要なのは、レイコが直子を理解しきれているわけではないという点である。彼女もまた直子の内面のすべてにアクセスできるわけではない。

しかし彼女の語りは、ワタナベとの手紙のやりとりを通じて、その「わからなさ」を前提にしつつ、観察との積み重ねによって、直子の状態を具体的に記述しようとする。ここでもまたワタナベは、レイコからの手紙を介して、自らの認識の外側の側面としての直子を知る機会を得ているわけだが、それはワタナベの内閉を解く契機とはならない。またしても彼は、それらを含めた直子像を自己の内側で絶えず再解釈し続けるのみなのだ。だからこそワタナベは、直子のことを考えながらマスターベーションをし、直子と離れた日々をやり過ごしているのは、直子に対して欲望が向かっているからなのだが、直子の精神状態が思わしくないというレイコからの手紙が届けば「僕が脆弱な仮説の上に築き上げた幻想の城*9」である、直子と二人で生きていくという望みが揺らいでしまう。それはワタナベが直子の容態を、自分と結ばれることができるかどうかという異性愛的な観点から眺めているからである。

そして死んだはずのキズキの対して「お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を絶対に見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女よりは俺の方が強いからだ。*10」とひとりごちる。そのとき暗示されているのは、ワタナベと直子との関係の根底にはキズキとの三角関係が隠れているということである。つまり、ワタナベは、死者であるキズキを自らの認識の世界に含めた状態で、直子を眼差しているのである。これが『ノルウェイの森』で唯一太文字で強調された文言である「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。*11」の意味でもあろう。

ワタナベの語りにおける直子は、レイコの語りより象徴的な位置を与えられていると言える。彼にとって直子は、キズキの死と不可分に結びついた存在であり、その喪失の記憶を媒介する特別な人物である。このズレこそが、異なる読みによって同一人物でありながら異なる像が立ち上がる理由であり、同時に『ノルウェイの森』における認識の非対称性を示しているのだ。

さらに注目すべきなのが、緑の存在である。直子が主人公の語りの中で理解されえない経験を抱えた存在として現れるのに対し、緑はむしろ、極めて具体的で即物的な言葉をもって主人公に応答する人物として描かれている。例えば、緑は自分の髪型が変わったことにワタナベが気付かなかったことに傷付き突然口をきかなくなる。そのときの緑の不機嫌は、「あなたはいつも自分の世界に閉じこもっていて、私がこんこん、ワタナベ君、こんこんとノックしてもちょっと目を上げるだけで、またすぐもとに戻ってしまうみたいです。*12」という手紙の内容で表現されている。緑はまさにワタナベの心の扉を「こんこんとノック」するような方法でワタナベを自己認識の外側へと連れ出そうとするのだ。

緑は他の女性登場人物とは異なり、主人公の認識の枠組みに収まりきらないというよりも、そもそもそこに収まること自体を行動をもって拒否する存在であると言える。このように認識の枠外で奔放に動く、主人公にとって不安定な存在としてえがかれる緑と結ばれることで、主人公が内閉的な自意識世界からの回復を果たすのだとする解釈*13もあるが、やや予定調和な楽観的解釈だと批判できなくもない。ワタナベの語りにおいては、緑のこのような具体性や現実性もまた、十分には引き受けられていないのではないだろうか。その証拠に、作品全体として『ノルウェイの森』は、37歳の主人公が過去の恋愛経験を語る形式をとるにもかかわらず、そのラストでは「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。*14」と、「僕」が緑というひとつのリアルを獲得し得ずに放り出されたまま小説は終わるのである。ここでもまた、他者の存在が理解されるのではなく、理解不可能な形式のまま放置されているのである。

同様の構造は、レイコの語りにおいても顕著に現れる。彼女は自身の過去の出来事、とりわけ性的被害に関わる複雑な経験を語るが、それは単なるエピソードとして消費されうるものではなく、語ることそれ自体が困難を伴うものである。しかしワタナベの語りにおいては、その重さが十分に引き受けられることはない。語りは共有されるが、理解は成立していないまま宙吊りにされるのである。ここに見られるのは、レイコの経験が「語られていない」のではなく、「語られているにもかかわらず、回収されない」という構造である。つまり『ノルウェイの森』において描かれているのは、女性の不在ではなく、他者の経験に対する理解の不可能性、すなわち認識の「限界」なのである。レイコが語る性被害体験では、自分の被害がむしろ周囲には加害者として理解されてしまったという致命的な誤解によって心に傷を負ったことが開示されているが、これは人の語りが他者には「誤読」のかたちで受け取られうることの一つの寓話なのである。

このように見ていくと、『ノルウェイの森』における女性たちは、それぞれ異なるかたちで主人公の認識の「外部」に位置していることがわかる。直子は理解不能な深さとして、レイコは語りの重さとして、そして緑は回収を拒む現実性として現れている。しかしそれらはいずれも、最終的には主人公の語りの中で処理されざるを得ない。したがって問題なのは、直子、緑、レイコに関するそれらの描写が本来孕んでいるはずの「理解の困難さ」が、主人公を主体とした読解の過程で消去されてしまう点にあるのだ。

***

以上見てきたように、『ノルウェイの森』において描かれているのは、女性が男性にとって都合よく配置された世界ではない。むしろそこにあるのは、他者の経験を完全には理解しきれないという認識の「限界」と、その限界ゆえに生じるすれ違いである。しかしながら、私がハルキスト的読解と呼ぶ視点からのみ『ノルウェイの森』を読むのであれば、この「限界」を見落とすのである。その結果、本来は回収不能であったはずの他者の経験が、「なんとなく分かる気がする」という非常に便利な感覚によって処理されることになる。

つまり、主人公の男性中心による語りしか汲み取らない、ハルキスト的読解をもとに読者が現実の人間関係に対しても転写した時に出来上がる可能性があるのが、「距離を保つ自分」「女性を理解している自分」という、やけに出来のいい自己像であろう。この自意識こそが、ハルキスト男性を”ヤバ”くするのではないだろうか。少なくとも私には、村上作品にはそうした危険性が孕んでいるのだと思える。なぜなら、村上春樹の文体は、あまりにも容易く主人公の語りに没入してしまえる心地よさがあるからだ。もっとも、そうして頭デッカチになったハルキストの自己像は他者との関係が本格的に始まった瞬間にあっさり崩れるのだが……その話はまた別だ。

冒頭で触れたように、「ハルキスト男性は“ヤバい”」という言説は、しばしば雑な印象論として片付けられてきた。しかし以上に見てきたようにそこにはそれなりの理由があるのだと想定せざるを得ない。問題は単に「女性観がズレている」といったレベルではなく、作品内での構造的「限界」を読めないがゆえに、読者自身も主人公の「限界」の内側に内閉してしまうことにある。それにより、他者を理解しきれないという前提そのものを引き受けないまま、「理解」したことにしてしまう」という誤った認識のあり方が形作られてしまうのだ。

もちろん問題は、村上春樹の作品そのものにあるわけではない。むしろ作品は、その「分からなさ」をしつこいほど提示している。にもかかわらず、それを読み飛ばして「いい感じの孤独」と「いい感じの恋愛」だけを都合よく持ち帰るのであれば、さすがにそれは読者側の問題と言わざるを得ない。

そしてこの種の誤読は、別にハルキストに限った話でもない。他者のことを理解するのは面倒だが、理解しているつもりにはなりたい、そういう欲望は、かなり広く共有されている。だからこそ、「ハルキスト男性は“ヤバい”」という言葉は、単なる悪口ではない。それはむしろ、「なにかと独りよがりな人」の極端な顕在化であるハルキスト≒〈僕〉という存在に対する、非常に率直な批判なのである。

*1:村上春樹『ノルウェイの森 上』講談社、2009年、52頁。

*2:Twitterでもたびたびコピペされているが、元ネタわからず

*3:『ノルウェイの森』(講談社) - 著者:村上 春樹 - 吉本 隆明による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS

*4:村上春樹研究会『村上春樹 作品研究事典』鼎書房、2001年、160頁

*5:村上春樹研究会、前掲書、160-165頁。

*6:『夢のサーフシティー』朝日新聞社、1998年7月、読者&村上春樹フォーラム93(1997年10月27日〜10月30日)

*7:村上春樹『ノルウェイの森 上』講談社、2009年、12−13頁。

*8:村上春樹『ノルウェイの森 下』講談社、2010年、185頁。

*9:村上春樹『ノルウェイの森 下』講談社、2010年、203頁。

*10:村上春樹『ノルウェイの森 下』講談社、2010年、204頁。

*11:村上春樹『ノルウェイの森 上』講談社、2009年、54頁。

*12:村上春樹『ノルウェイの森 下』講談社、2010年、212頁。

*13:加藤典洋『村上春樹 イエローページ 2』幻冬舎、2006年、17-55頁。

*14:村上春樹『ノルウェイの森 下』講談社、2010年、293頁。

〜書物というモノから精神世界へのジャンプ〜ピエール・バイヤール『読んでいない本を堂々と語る方法』批評。

 

『読んでいない本について堂々と語る方法』を批評するにあたり、バイヤールという信用のならない語り手とどのように向き合うべきかという問題に悩まされる。彼はテクストが信用できないものだとしつつ、自らはテクストによって読者に語りかける。この矛盾とも思える乖離現象は両立しうるのだと理解することこそ、この書物に対する批評が、純度の高い創作として結晶化する条件となるだろう。

『読んでいない本について堂々と語る方法』は、近代化された社会におけるテクストの絶対性と創造性の問題を提起している。現代社会は、ことばから喚起される創造性を排除しようという試みによって支えられている。これは元来人類が持ち合わせていたことばの生の標本化であり、もはや現代においては、ことばは、囚われの身として書物に刻み込まれ、教育や政治で、絶対的な掟として活用されている。

この、テクストの絶対視という社会制約が、現代社会の発展において効果を発揮しているのは確かである。しかし一方でこの制約は人類の共有財産であることばに、権力を与えてしまっているのだ。権力をたずさえたことばは、教育や政治をとおして人々に、生の否定という抑圧と暗示をかけるのである。ことばの生の否定がまた、人の生の否定になるという奇妙な関係性は、行き場のない生と、自己との乖離をもたらす。

バイヤールの言う「ヴァーチャル図書館」とは、自らの生を、数多の書物の生が共生する連続性と代謝の中に位置付けることによって、自己の精神世界に立ち現れるものであり、ことばと人々の生を否定する試みは、そのような「ヴァーチャル図書館」の中の生の連帯から人々を追い出すことに加担する。テクストの権力は、生の輪廻の中から人々を引き剥がすのである。バイヤールは、この不自然極まりない人と生との乖離によって「教養」というフィクションに怯え、テクストを盲信する社会の現状に疑問を呈し、ハウツー本の迷彩をまといつつも、テクストの権力に侵食された読者に対しさながら異端者のように訴えているのだ。

しかし彼の訴えは、書物の狂信者である人々に不安をもたらす。人々は答えがあると思い込んでいた方が安心し、テクストの絶対性に身を委ねていた方が、行く道は確かだからである。バイヤールの主張は、社会が作り出した虚構のテクストの秩序性を、無秩序化する試みでもある。

それは人々を路頭に迷わせ、読書行為、学習行為への指標を失わせる危うさを孕んでいる。バイヤールが述べるモンテーニュの例のように、ことばの不確かさを明るみに出すこの試みは、自己の不確かさも自覚させてしまう。この不安は時に人の自己のアイデンティティに対する自信を押し潰してしまう。

テクストへの信仰をやめ「ヴァーチャル図書館」の中の流動的な生に自らを位置付けようという試みは、自己の肉体の消失ともつながる。「ヴァーチャル図書館」の中の書物は、もはや物体としての形状をとどめておらず、ことばの生の断片として際限なき空間に浮遊している。そのような空間の中で自己もまた、一種の形態なき書物として断片化し浮遊することを余儀なくされるのである。

人々のアイデンティティは、テクストの絶対性によって担保される。普段、自らの肉体にテクストを刻み込み、肉体をテクスト化することによって人々は、ことばの不確定性に起因する、自己という存在に対していだく不安から逃れようとしている。一方で、「ヴァーチャル図書館」の中に自らを位置付ける試みは、テクストによって肉体に刻み込まれたアイデンティティの喪失を意味し、それは、ことばの可能性の際限のなさという途方もなく危険な生の大海原を目の当たりにすることでもあるのだ。

テクストへの信仰を失うことによって立ちはだかるこの大海原は、生の激しさによって荒々しく波打っており、この波との戯れは、自己を呑み込み底に沈める危険性と隣り合わせである一方、あらゆる可能性へと自己を後押しする希望をもたらす。それは創作への希望であり、批評という創作行為もまた、この希望によって支えられているのだ。この希望こそ、バイヤールが重要視するものである。

創作への希望は、テクストの制約から自己を解き放つことによって現れる。それは、「ヴァーチャル図書館」の中の、波打つことばの生に、自己の生との極めて個人的な繋がりを見出すことを可能とする。バイヤールは、この危険の伴う希望へ旅することこそが、「読んでいない」書物を語るという状態であり、それは、究極的に言えば、書物至上主義から脱することであると提唱する。想定されうる様々なシチュエーションを例に実践的な語り口で読者に対し、書物至上主義からの離脱を呼びかけるバイヤールは、パラドックスを弄しているのだと批判することもできるが、そのような批判もまた、テクストの絶対性というフィクションを盲信するがゆえである。

バイヤールの主張のパラドックスは、書物至上主義の権力から脱した境地において融和し共生する。それは、バイヤールは、テクストという権力によってではなく、ことばの、最も本質的な、無限大に広がる可能性という生によって読者に語りかけているからである。バイヤールにとって、書物についてを語ることが、書物至上主義を意味するのでは全くないことと同じく、書物を書くということもまた、書物至上主義に加担しているわけでは全くないのである。むしろ、彼は、彼自身がそもそも、権力から脱したことばの生が混沌とひしめき合う境地から見出したことばによって読者に語りかけようと試みているのである。

このことばの境地は、限りなく深く、広い、永遠の時空を持つ場所であり、肉体や物体は踏み入れることができないが、書物というモノや、インクによって紙に刻まれたテクストによって、また、人との会話の中で「ヴァーチャル図書館」を共有することによって、この境地は姿を表し、人々に垣間見せるのだ。この境地との出会いは、人々に創造性をもたらす希望となる。バイヤールは、『読んでいない本を堂々と語る方法』において、このモノや肉体からかけ離れた境地に人々を手招きしているのである。この希望の場において人々は、テクストの制約に縛られない自由の翼をもち、自らが創作者となる。この状態が「読んでいない」本を語るのを可能性にするのだ。

この境地で自由を得るためには、唯一無二の読書体験をしなければならない。読書体験によって、自らが能動的に、この境地を自己の精神世界に立ち上がらせなければならないのである。バイヤールは、この能動的な読書のあり方を、『読んでいない本を堂々と語る方法』において身をもって示している。彼は、彼の精神世界で、自ら創造の翼を手にし、『読んでいない本を堂々と語る方法』の創作者となったのだ。この書物において主人はバイヤールでありテクストではない。これはバイヤールとことばとの間の極めて個人的な関係であり、そのほかの人々とも関係がない。しかし、そのようなことばと創作者との個人的関係の結晶である書物に対して、人々が能動的な読者として臨めば、またしてもその読者個々人に創造の世界が開かれるだろう。これが、バイヤールが言う「本は読書のたびに再創造される」の意味であり、このようにして読書のたびに人々は創造者となり「読んでいない」本について語るのである。

 

Twitterやめたー〈フツウの女の子宣言〉

 Twitterという言葉を抹消してしまうイーロン・マスクの権力には、やはり抗うべきである。そのTwitterももう私は辞めたのだが。

 

 私は大学一年生の頃から、「室長」という名前のTwitterアカウントで発言していた。物議を醸しそうな奔放な発言である対象を挑発したり、自分の専門分野に関するツイートで多少の注目を集めたり、作品の批評を書いたり、新しい人間のあり方について考えたりしていた。とくにスイッチが入ったときは饒舌になり、鋭い言葉で言論を組み立て、よくぞ言語化したものだと我ながら感心してしまうような言説を生み出した。その結果、大学やサークルの知人からも現実で「室長」と呼ばれるようになった。

 

 しかし先週、突然限界が訪れた。ここ半年ほどすでにTwitterには飽き始めていたが、決定的だったのは、自分が「室長」として存在していること自体に恥ずかしさを覚えるようになったことだった。私はそれなりに恵まれた言語化能力をどこかで誇示したいという衝動を抑えられず、節度を欠いたギリギリスレスレの際どい発言を次々と生み出していた。露悪的で、挑発的で、攻撃的である。要するに、トリックスターを気取っていたのだ。既存の秩序をかき乱したくて仕方がなかった。そういう狙いがあったのである。楽しいし。

 そんな私のはちゃめちゃ主義が最も如実に現れているのがこの記事であろう。

 

koborisatoru.hatenablog.com

この記事において私は、言論は「戦い」なのだと喝破している。言論は淘汰されていくものだ。だからサバイブするには、あらそいは避けられない。そうせざるを得ない状況下に置かれている人もいるはずだ、少なくともこれを書いた時、私はその側に居たのだが─

 

しかしそうした暴君めいたスタイルは、近頃の「リベラル」の空気のなかではむしろ批判の対象になりつつあるようだ。まあ、バックラッシュを繰り返してるところもあるとは思うのだが、とくにここ最近の世界の政治事情を見ていると、トリックスター・スタイルのドデカイ発言をしている奴が相当イカれてきているので、その兆候を喚起させる言論スタイルは支持されなくなってきているのだろう。しかしやがて真逆の「穏健主義を装って抑圧するタイプ」のイカれ野郎が流行すれば、また私のような暴君ぷりも人気が再興するんだろう。「リベラル」ってのは、都合がいい奴らだ!…したがって、タイムラインに流れてくるさまざまな言説が、まるで自分の特性や思想を批判しているかのように感じられてきた。

 さらに、自分が女性であるという事実も大きな足枷となった。普段の私は、自分が女性であるという意識が(あれほど少女趣味なのに?)比較的希薄な人間だったので、深く考えていなかった。だが冷静に思い返してみれば、あれほど危うい発言を若い女性が繰り返しているという状況は、やはり相当にきわどい。どう見ても「危ない人」ではないか。

 

 そもそも、あのようなSNSの使い方を続けていれば、いつか精神の構造が破綻するのではないかと思う。私は室長としてかなり見境いなく自己開示をしていたから、「あの人があの室長か」と思われながら生きることが、どこか生き恥を晒しているように感じられた。私がネットで自己開示をしていたのは〈女性固有の経験を示す〉というフェミニズム的な意義を見出していたからだが、その役目も終わったと思う。意義はあったが、このままでは自分を守れない。そう判断して、それらに関わる記録をネット上から消した。ブログも、差し障りのない記事以外は非公開にした。非公開記事でまた読みたいのがあったら言ってー。

 

 何より、室長という存在のせいで人との間に溝ができているように感じていることがそうとうキツイ。自分が作り出したペルソナのために、現実での自然な親密さが得にくくなっている気がした。今までは、ちょっとヤバい奴と思われていた方が、容易に人が寄り付かなくなるので、自分を守ることになっていた。しかし、これから大学院に進学する自分には、たぶん、ほんとうの仲間が必要だ。そして、知人に「室長」と呼ばれるたびに、奇抜な発言をする危うい人間だと思われ、距離を取られているのではないかと感じてしまい、悲しくなった。

  なので悲しいのでやめました。私がもともと奇抜な性格をしているのは事実なので変えようがないんですが、今年は大学院に進学するしこれからしばらくは大人しくしてフツウの女の子として猫かぶって生きまーすニャーゴ

 

室長は あらゆる秩序に挑戦した

究極の自由を追い求めたのだ!

しかし

( ˘ω˘ ) スヤァ…

 

…室長よ、今はただ眠れ。 

 

*** ***

 

そういえば、少し前には、いわゆるマッチングアプリにも挑戦してみたが、これもやめた。

 始めた理由は、私は自らのセクシャリティがよくわからないので、何がいけて、何がいけないのかを知りたかったという好奇心。大学院を修了したあと、博士に進むにせよ就職するにせよ、結局は一人で生きていくのだという事実に、どこか漠然とした不安を覚えたからでもある。ただ、この不安に関しては、いま振り返れば取り越し苦労だったように思う。大学院に進学して学業もこれからっていう今の私のライフステージでは、まだ考えなくてもいい問題だろう。

 

 結論から言えば、意味はなかった。

 写りの良い写真を使ったおかげで、私はいわば中堅人気会員くらいにはなった。多くのユーザーが「旅行が好きです」「猫が好きです」といった、誰にでも当てはまる無難なプロフィールを書いているなかで、それに対抗するように、私は「△△の領域で〇〇を研究しています」「興味分野は何々です」といった、明らかに限られた層にしかリーチしない内容を書いた。その結果、世間的にはエリートと呼ばれるのだろう人々と多くマッチングし、「自分は知的である」と思っていそうな男性から、賢さをアピールするメッセージが届いた。

 しかし結局のところ、ヘテロセクシャリズムという古典的で狭隘なコンセプト内で出会おうとすることそのものが、全然知的?ではないのだった。自らのヘテロ性をかえりみずにマチアプを使う奴なんて、ヒューマニティに欠けているに決まっている。実際、女性蔑視ムンムンな男が多かった。例えば、通話をして、自分の研究について話すと、「そんなに細かい説明わざわざw」とか言われてクソうざかった。別に早口オタクみたいな喋り方を私がしてたわけでもなく、あくまで専門用語を使わずに一般向けに話していたので、私のトークがダメだったわけではないだろう。どうやら高学歴ってやつらしいが、馬鹿すぎる。自分より専門性のある女と話せん馬鹿男キモいな。

というかそいつは、文学読んでるってのがウリらしくてプロフィールにアピールしてたけど、いざ通話したら私の方が全然文学に詳しいから「まあ俺は広く浅くって感じでゴニョゴニョ」とか言っちゃって不貞腐れてる様子だったなあ。

 

 …なので、ジェンダー論の基礎すらわかってない人はちょっともう話し相手としては無理だと思いました。私がわざわざ教えてあげる義理もないし?そういう意識がある人はマチアプやんないっしょ。やーめた!

 

というだけの話である。

 

むしろ、タイムレフトのような、よりフラットで非異性愛前提の場で、気ままに人と話すほうがずっと楽しい。あくまで友達づくりの場なのだから、そこにいわゆる合コン的なノリを持ち込まれると、違うなーってなる。

 

 やはり、異性愛主義にはこういうくだらなさが付きまとう。みなさん、コミューン作って共生して生活しませんか?

 

やっぱり、わたし、フツウの女の子にはなれないなあ!

〜どこまでものびてゆけ〜『劇団くるめるシアターの「牧草物語」』批評。

 高野希氏とくるめるシアターによる今作『劇団くるめるシアターの「牧草物語」』は、自意識的な感傷や、破壊的カタルシスに陥ることなく、物語は終始、他者や「世界」と地続きのものとして展開された。前作『キツキツマンキツ船のゆらぎ』では、自己に亀裂が入ればたちまち揺らいでしまうような「セカイ系」的な意味での「世界」が描かれていた。ところが今回の『牧草物語』で立ち現れたのは、驚くほど打って変わって鮮やかな「世界」の様相であり、それは紛れもなく現実の、〈私〉や〈あなた〉、そして〈私たち〉が複雑に絡み合いながら存在し共存ている「世界」なのだった。

 作中では、父の臨終を機に、父が創立した観光牧場・ファーデル牧場をどのように引き継いでいくべきかというその娘の四姉妹の葛藤が描かれている。そしてコンサルティング会社の皮を被った「カワイイ至上主義団体メーメーメー」の排外主義的政策を撃退するために、牧場と共に生きる多様な存在をそっくりそのまま受けもち、誰も見捨ててはならないのだという覚悟に至る。そこで展開される一見するといかにも学生演劇的な雑多さやネタめいた軽さも、単なる賑やかしとして置かれているのではない。そのくだらなさそのものが、〈私〉〈あなた〉〈私たち〉という他者性に満ちた「世界」をかたちづくる要素として主題化されていたのだった。

 『びーあんあいどる!!』から現在に至るまで、高野氏の作品には一貫して、取り戻すことのできない過去をもう一度呼び起こそうとする欲望が流れている。それは『びーあんあいどる!!』においては核戦争前の記憶を引き継ぐ少女たちの奮闘であり、『シネフィル・バスターズ』では自主映画を作ろうとするサークル仲間たちの青春劇として駆け巡っていた。また、『キツキツマンキツ船のゆらぎ』では主人公の独白により、過去を振り返る作業が行われたのだった。

そして今作では、その過去への衝動が父の死という出来事によって強く喚起されている。しかしそこでは「過去(父の存在)」は、単に遮断され封鎖されるものではない。むしろ姉妹たちが直面する現在の危機を乗り越えるための力として「世界」へと循環し、あらためて「今」において語り直されるものへと育まれていく。父の言葉が、姉妹たちが困難を克服する励ましとなる言葉となるべく再帰していくのだ。そうして再構築された物語はまた、未来へと開かれていく可能性も示されていた。それはファーデル牧場の展望でもあるし、同時に大木のメタファーによって暗示されており、生き続けながら太陽へ向かって伸びていくイメージを喚起するものだった(少なくとも私にはそう感じられた)。

 『びーあい』『シネフィル』『キツキツマンキツ船』では、とりわけ時間軸が一本の線として進行し、それを前後させたり倒置したりする操作が物語を駆動させていた。だが今回は、時間の扱いがよりシームレスになっている。例えるならば、時間を(過去を)「保存」しながら育んでいくという大木の幹のイメージに象徴される縦軸があり、そこから枝葉のように広がる姉妹たちの人間ドラマが「世界」として、奥行きのある横軸を担いながら有機的に伸びていく健やかさを感じさせられる。

私なりの解釈ではあるが、その中心には、〈癒し〉〈回復〉〈安心〉〈愛〉といった人間に不可欠なものの恒久的な原型が息づいている。物語の核であればあるほど「穴ぐら」のように暗く閉ざされた過去として断絶しているのではなく、むしろ根源的なエネルギーが湧き出し、そこから物語が生成されていく場としての中心であるのだという、確かな芯の強さに支えられているのだ。

 今回において高野氏の作品は、初めて物語が「終わった」のではなく、「生まれた」のだと感じさせるものだった。物語は舞台上で「いま、ここ」の出来事として消滅するのではなく、「いま、ここ」に確かに存在しながら、さらに未来へと差し向けられ、還元されていくものへと熟していた。分裂しつつあり傷付く者を大量に生産するシステムとなりつつある世の中で、それに対抗するこの放縦な軸線をひたすらに押し広げてあらゆる頑な心をも突き抜けていける。極めて根の草的な更生のためのひとつの拠点となりうる物語だった。

 ここまで物語によって見事な結論を導き出せたのは、高野氏が今までの作品作りの中で常にその時々の「世界」の課題を繊細に感じ取りそれに応答し続けてきた責任感の強さだと思う。間違いなく物語が世に還元できるものとして完成された作品だし、高野氏自身の生き方や人格、またくるめるシアターのあり方の一部そのものとなる作品になったのではないか。そしてこの物語はまだずっと育まれ続けてフィクションの枠組みに収まりきらず、物語に触れた人のおのおのにこれからの未来の人生をも駆動していく物語になっていくだろうと思う。

ウォシュレットってのはとんだクソくらい野郎だ。

どうも。サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダーには初参加だ。

いま、早起き習慣のために始めたコンビニバイトの三時間シフトをこなした後にこの記事を書き始めている。というのも、今朝のバイトのトイレ掃除のタスクで、なんとも強烈な光景を目撃してしまったからである。

それは、その店舗に三つあるトイレうちの一つ、男女共用トイレの中で、なのだった。蓋のない設計となっている衛生的に遺憾な便器(洗浄時の飛沫の飛散防止のためには、是非とも蓋が必要である)の便座、その付け根ともいうべき部分の辺り一帯に、実に不自然な水滴の数々というか、水しぶきが、散らばっていて、丁度冷たいコップの表面がそうなるみたいに、その水が、ポツポツと沢山付着していたのである。

 私が今描写したこの様子は、こう想定するほかない。誰かがウォシュレットを使用したのだ。

なんてことだ!

外出先のトイレのウォシュレット使う奴マジでいるのかよ。

 ここで私は、不特定な人々によって要をたされ、衛生的な観点からして不浄であることから決して逃れられない命運にあるこのコンビニのトイレにおける、ウォシュレットという存在及び機能の発露を目の当たりにして、虚を突かれ、軽いめまいに襲われた。

 そもそも私はウォシュレットという機能そのものが嫌いだ。トイレ、トイレの水とはそもそも本来的に、排泄という人間の不潔な過程を一身に引き受けてそれに相応しい安心感のある汚らしさで包み込み、見えないとことへと流していくものであるはずだ。不潔・清潔の観念は社会的構築物らしいが、だからこそ、私は、これがきれいであれはきたないという区別は明確にしておきたい。なぜなら、そうやって棲み分けをして自分は清潔に生きるということこそが、人間という文化的な存在を支える条件であると思えるからだ。あの先端部分を想像してみろ。まるで、人間に恥を食らわせて、さらにその恥が快楽だと思い込ませるために開発されたみたいな奴だ。その噴射する水を自らの尻の穴に命中させて浴するなどということのどこが喜ばしい。みんな騙されているんじゃないか?感染症のリスクとか考えないのか?

 また、この衝撃と加えてさらに、この水飛沫の痕跡を顕にするというウォシュレットによる思いがけない自己顕示とは、おそらくウォシュレットが不適切な形で使用されたことの確たる証拠であるという意味でも、私にとって気の滅入ることなのだ。

ケツ穴に命中させようとして失敗したのだろうか。それは太もも、背中や服にまで容赦無く飛びかかってきて、今や未練がましく便座にも参上して横柄に私を待ち構えているのだ。使用者が自らペーパーで拭けばいいものを、それすらしないということが尚更私を馬鹿にしているのではないかという侮辱感を掻き立てる。くそたれ。

 

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私がそういうの嫌だっって知っててわざとやってるの?ねえ!

─でも、あなたは望んでバイトとして清掃をしているのですよね?

違います!そうせざるを得ない状況に追い込まれているのです。そこには雇用主と雇用者という、圧倒的な権力勾配があります。これはウォシュレット・ハラスメントです!

 

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 ウォシュレットという悪魔的発明で致命的なのは、これがケツ穴とのインターフェイス・デザインであることだ。すなわち、肛門との戯れを明白に意識した確信犯であるということだ。トイレというものはあくまでも理念としては抽象的に、排泄を限りなく美しく行おうとして形成されている。そこでは我々の肛門とは不特定で任意のものとして想定されるが、それは概念なのであり、決して具象化され得ず、それゆえ正しく使用さえすれば、誰もそのまさしく使用に対して責任を負わずに済むのだ。

 それが今日のアレは、否応なく私に、ウォシュレットとそれを確かに使った特定の誰か・そしてそいつのケツ穴、またさらにそいつの挙動とその結果が私の清掃責任としてのしかかってくることを、一瞬にして突きつけた。

 そのあまりの実存的な鋭さに、私は恥辱に殴られた気分になった。2025年12月17日にトイレを使用したお客様の誰かという、圧倒的で、抗いようもない存在。こいつを目の前にして私は無力だ。

 

親密性to「複声」〜濱口竜介論〜

 前回、親密性に関する私のブログで、私はよくわからん他人と心理的なチキンレースをして相手を試しているのだという、まるで「ファムファタ気取りのメスガキ」であるかのような言いっぷりをしましたが、撤回します。私はそんなアバズレではありませんし魔性の魅力とかも無いと思います。どちらかというと私は「断れないタイプ」の冴えない人間であることを自認しています。つまり自分からノコノコヒョイヒョイ人に付いて行ってるくせにそれを「断れない」こととして自らの主体性を不問にするという、チキンレースの不正取引を押し売りするより悪質な女なのです。

 紛れもなく自ら自発的に行なった行動であり、それによって予想される結果など当然のパターンとして想定しても良いのにも関わらず、私は自身の主体性を隠蔽して鈍感で言葉通りのことしか受け取らない態度をとり、いざとなったらタゲられただの大人げないことを言って喚き立てて自らを未成熟な人間にしてしまうのです。というか、そもそも他者関係においては受動と能動の区別とは「コックリさん」状態なのであり、曖昧なものなのであり、それらは常に共謀によって成り立っているとも言えます。だからこそ人は相手のエンジンに自分の舵取りが惑わされてうっかり暗礁に乗り上げてしまわないように自分の意思を明確に提示する必要があります。そのようにして意思を伝え合いながら安全運転でよろしく「コックリさん」をしていく関係性こそが、健康的な親密性と言うべきかもしれません。しかし私にはどうしてもこれが苦手です。だからといって、私は絶対的なバリアーを張ることによって他者を突っぱねることをよしとする人間であると思われることは不名誉であり、そのようなキャラクターとみなされているのだとしたら是非とも脱却したいと思います。

 ところでこの意思の伝達という問題に関して極端な例を挙げますが、この前NHKでトラウマ治療のドキュメンタリーを見たら、そこでは患者が腹の底から「嫌だ!」と言うための訓練を受けていました。 まず治療者が患者に机を押し付け、その机を患者自身の力で退けながら大声で「嫌だ!」と言うことを促されます。トラウマ体験は自己の主体性のバランスを著しく損なう経験であるため、患者がもう一度自分の意思を取り戻すための練習をしているのです。このとき治療者が患者にリピートさせるためにドスの効いた声で「嫌だ!」と発声する様子が凄まじい気迫で、まるで患者の強度を限界まで引き出していくかのようでした。

 この治療者である光の花クリニック院長の白川美也子さんは、「身体ではトラウマを経験していても、言葉で経験できないことがある。しかし人は、声や言葉ははなくても身体では全部経験している。だから身体から声を出すことが大事。」だと仰っていました。身体と声を統合させることによって、自分が感じている本当の意思を他者に伝えることが目指されているのです。

 ここで私が思い出したいのは、濱口竜介監督による『ハッピーアワー』という映画のある印象的な場面です。主要人物の女性4人を含めた登場人物たちが「重心に聞く」というワークショップに参加するシーンです。ここでは2人やそれ以上の人数のグループを作って、お互いの背中をくっつけて床に座った状態から立つといったようなレクリエーションが繰り返されます。お互いに体重を預けながらの状態で立つという動作にはバランス感覚が必要です。少し押しすぎると相手が倒れてしまうし、自分が相手を頼りきれていないと自分が崩れてしまいます。このワークショップでは、身体的なレクリエーションを通じて、侵略的すぎずかつ人との関わり合いの輪の中にコミットするような、ちょうど良い他者関係を探るヒント提示していると言えるでしょう。作中では、そのことをワークショップの主催者である鵜飼というキャラクターが次のようなセリフで説明しています。以下は抜粋です。

他人と重心を探り合うことは、実は自分の重心をありかを探ることでもある。そして重心、つまり完全な釣り合いを見つけたときっていうのは、言葉とは裏腹に、重さが消える瞬間でもあった

でも、重さを感じないためにかえって、気がつけば重心を見失ってしまうときがある。崩れてしまうときがある

そしたらまた重心を見つけるためにコミュニケーションしないといけない。他人とも、自分ともね。*1

ここで鵜飼は、レクリエーションという身体的なコミュニケーションによって他者関係における「釣り合い」のありようを探り、そこから親密性の核心へと漸近しようとしています。その核心とは、「重心に聞く」のワークショップの中で、それをさらに発展させたレクリエーション「はらわたに聞く」によってより近づいていきます。「はらわたに聞く」では、実生活での言葉によるコミュニケーションの優位性をいったん傍に置き、その代わり、他者のおなかの音を聞いたりして全身で人のことを知ろうとする試みがなされるのです。

 このように『ハッピーアワー』で表現された、身体的なコミュニケーションに対する重要性を、監督である濱口は「からだはしゃべっている」という言葉で主張し、しかも「『意に反して』からだは語る」のだという驚きをもって、見事な考察力で言語化しています。

からだは言語より正直だとしても、伝達の正確さは言語に及ぶべくもない。だとすれば言語によるコミュニケーションを社会の土台とするために、「互いにじっと見合う」ことを避ける、という合意が暗黙のうちに形成されることも合理的なことだ。我々の「意に反して」語るからだと「じっと見る」眼差しが出会ってはならない。それは社会の存立条件を揺るがすほどの事態なのだ。*2

 濱口は、身体は言語よりも正確性の点においては劣るかもしれないが、正直さにおいては言語よりもはるかに雄弁に物語ってしまう。そのあまりの真率さとは、言語を土台とした社会条件を揺るがすほどに赤裸々であるために、実生活では身体に注目する「眼差し」が禁じられているのではないかという考察を導き出しています。ここからさらに濱口は、その「からだ」を嘘偽りなく写し、身体による語りを精密に暴いてしまう媒体であるカメラによる映像表現へと肉薄していくことになります。

 「からだは言語より正直」であるからこそ、それを見ないようにする。

 これは前回のブログで私が言ったように、私が言語的な伝達に真価を置くためにそれ以外を不信用なメッセージとみなしてしまい、チキンレースを繰り返して親密性が困難になっていることにも通じるでしょう。また、初めに例に挙げた、光の花クリニック院長の白川美也子さんの「声や言葉ははなくても身体では全部経験している。」という言葉を思い出すと、現代社会において、濱口が述べるように身体を眼差すことが抑圧され、言語を優位に置く構造が形成されているとすれば、なおさらその抑圧された身体的メッセージ(「嫌だ!」)を言語の形へと見える化する必要性があるのだとも言えます。

 つまり、ここから導き出されるのは、私たちが生きる社会では、正確性や効率性が優先されるために言語が基盤となった社会やそこでの構造が形作られているが、そのことによって、それよりも正直であるはずの「からだ」によるコミュニケーションが社会的公式としては無視され、断絶されている。これが、他者と触れ合ったり分かり合ったりする、親密性を困難にさせているということです。

 私たちは「からだ」を直視することを憚り、正直になれず、そこでの言葉とは身体を貫いて切り刻むものでしかない。言葉が身体からかけ離れていくことで、私たちの意思や他者関係は分裂しバラバラになってしまう。「嫌だ!」が伝わらない、「嫌い」と言うけど本当は好き、といった矛盾し統合の欠いたメッセージが見当違いな方向に虚しい音を立てて投げ出されていく......

 これは、言葉と身体との間で引き裂かれる現代の病理に他なりません。このような不健全な状態の荒ぶる「コックリさん」が導く先が不幸な望まない顛末となることは容易いでしょう。

それでは、このように親密性が困難な時代にあって、これを克服することとはどのように可能となるのでしょうか。尻切れトンボになってしまうかもしれませんが、ここで、濱口が、『ハッピーアワー』の制作に至るまでに「聞く」営みへと着目し、そこから「複声」という語りのあり方を見出していったことについて言及して今回は終わりにしたいと思います。

 「複声」は、『ハッピーアワー』より以前に製作した、『なみのおと』『なみのこえ』『うたうひと』の東北三部作において濱口が出会った概念であり、自分であると同時に他者であるような語りのあり方を言い表します。東北三部作は、東日本大震災の被災者を取材した記録映画となっていますが、この制作の際に仙台入りした濱口は、被災の中心部へと接近するほど、その体験を言い表す言葉がなくなっていくことに気付きます。

彼らは話を聞くなら沿岸部の人たちに、と言った。そして沿岸部で、浸水を受けた人の話を聞けば「家を流された人を思えば、うちは随分マシだ」と言う。果たして家を流された人に話を聞けば「うちは皆無事だからね。親しい人や家族を亡くした人のことを思えば、落ち込んでられない」 と言う。そして親しい人を亡くした人は「波に呑まれたあの人はどれだけ苦しかったろう」と言った。誰しもが「(想像上の)自分より強く被災した他者」への配慮があった。当初は聞きながら、段々と自分が「被災の中心部」へと向かっていくような感覚を持っていたことを覚えている。そして、 波に呑まれた人たちの死がまさに「被災の中心」として提示されるに至って、聞くべき対象が消失してしまったような印象を受けた。この「より苦しい思いをしたであろう」他者を想像することが、 人の口をつぐませているようにも見えた。*3

 ここでの濱口の気付きは、宮地尚子が『環状島=トラウマの地政学』で述べる、トラウマの出来事とそれを取り巻く関係性のメタファーとほぼリンクするものでしょう。それは、トラウマの核心部であればあるほど当事者の声は絶えており、それから遠ざかるほど当事者の発言力が強いというトラウマの構造を表しています。つまり、より「からだ」でトラウマを経験した人ほど、言葉では語ることができないのです。これもまた、最初に私が紹介した、光の花クリニック院長の白川美也子さんの言葉「身体ではトラウマを経験していても、言葉で経験できないことがある。」ということでもあると思います。白川さんは「声や言葉ははなくても身体では全部経験している。」と主張しますが、震災のように、その身体がもはや消え失せてしまったときは誰がその経験を言葉にしていけばいいのでしょうか。そこで召喚したいのが、濱口が言及する「複声」です。濱口は震災という語り難い体験を語るために、自分であると同時に他者である語りとしての「複声」を見出し、そこに欠落してしまった「からだ」の姿をも存在させようとします。そしてそのような語りとは、「聞く」姿勢によって可能になるのだと考察しています。

それは大小様々なコミュニティの歴史と関係性の中で生きる人たちが互いに聞き合うことによって生まれる、たった一人のものではない「分厚い声」なのではないか。(中略)聞かれているという実感から生まれる「いい声」は、本来的に真偽判定不能な「語り(騙り)」をスッと信じさせてくれる。何らかの語りが率直なその人自身の表れに感じられるとは、そのような事態に他ならない。*4

「複声」とは、ただひとりが発するだけで成り立つものではなく、コミュニティや歴史との関わり合いの中で互いに「聞く」ことによって、その結果として声や言葉として立ち現れるものである。そこには当然、もう自分からしゃべることのない死者の声や、言語化に困難を抱えたトラウマ体験にまつわる声も含まれているはずだ。そうした「いい声」は、聞かれているという実感から生まれ得るのであり、その「いい声」は、「その人自身の表れ」すなわち「からだ」から発現される声に他ならない。つまり、ここで濱口が言いたいのは、他者の声を「聞く」という姿勢が、言語という表層的なフェーズだけではなく、「からだはしゃべっている」という、より正直で本質的な層、その人の「重心」でありうるような「はらわた」から湧き出てくる声を引き出すことができるのだという可能性です。濱口はこうした人の経験やコミュニティのより記憶の深いところに触れていく声とその身体のありようを、どのようにしてカメラが「聞く」ことで映像上に記録していけるのかを探究することになります。

 今回私は、 現代社会における言語を優位に置く構造が身体的なコミュニケーションを断絶してしまうことの問題を提起しました。それによって人は身体が感じていることと言葉で言っていることとの分裂を余儀なくされているのです。この乖離を「複声」のような語りのあり方によって克服できはしないでしょうか。つまり、私たちは身体と言語とをまるで他人同士のように切り分けてしまっているが、そのお互いをお互いが「聞く」姿勢によって、一つの声へと統合できるということです。私の言葉は身体に自分が正直であるのかを「聞く」必要があるし、私の身体は私の言葉が私を言い表すことができているのか、できていないのかを傾聴する必要があるということです。

 そのような自己統合とはまた、他者との聞き合いの網の目の中で循環していくものかもしれません。「自分の話を聞いてくれなかった」ということは誰もが経験していることであると思いますが、そのようにどちらかが他者の語りを軽くあしらったり低く見積もったりして、うわべだけ取り繕おうとすれば亀裂が入ってしまうということは往々にしてよくあることです。それでもなお、語り続けること。聞き続けること。またその方法を探ること。そうした語りが他者の語りを誘発して、より正直な「はらわた」でのコミュニケーションが可能となる、奇跡のような瞬間があるのではないか。濱口竜介の映画作品はこの奇跡を映像表現において体験させてくれます。

 ここまで私は、言語によって親密性の問題から「複声」という視座に至るまでの思考の過程を綴ってみましたが、果たしてこの文章は私自身の「はらわた」と呼応するものとなっているのか、確信はありません。言語と身体には永遠に交わることのない相剋があり、人はその差を限りなく縮めていくことしかできないのかもしれません。そう考えるとますます私は「複声」的な親密なコミュニケーションのあり方を本当は実際には何も掴んでいないことになります。というわけで、今回の私の記事では何一つ答えが出ませんでした!誰かこの答えがわかった人がいたら私に教えてください!それを「聞く」ためにいっぱいいっぱい、身構えています!

*1:濱口竜介、野原位、高橋知由『カメラの前で演じること 映画『ハッピーアワー』テキスト集成』左右社、2015年、105頁。

*2:前掲書、28頁。

*3:前掲書、31頁。

*4:前掲書、37、38頁。

〜What’s the real bullshit here?〜私がくそたれと思うこと。

「ていねいな言葉を使いましょう」

 まるで学級会が黒板の上に掲げる「◯組のもくひょう」みたく使い古されたこの訓示を、人文系に携わる人間は必ず講釈されたことがあるはずだ。あるいは「言葉を大切にしましょう」云々。確かにモットーとしては、何も悪くない。むしろ文章を扱う私にとっては痛い話で、図星で、普遍的でさえある。言葉選びに気をつけなければ伝えたいことがキチンと伝わりませんよ、というわけだ。もちろん、これは敗北を喫する他ないド正論である。しかし、このありがたき、そしていかにも模範的な響きであるせいで気恥ずかしくさえあるスローガンをあえて標榜するには当たり前すぎて、その者の虚しさを思わざるを得ないのだ。「ていねいな言葉」。これはあくまで教訓、忠告なのであり、言ってしまえば「お局様に気に入られる方法」といった類のライフハックでしかない。それを「文体」だとか「スタイル」だとかに用いる輩など、うわつき者のとんだ極楽トンボである。なぜなら、本当にある言葉を切実に求める魂は「ていねい」などと言っていられる余暇など無い。本当に言葉を求める者、つまり、食べる為、生きる為、もっと根本的に言えば、存在する為に、本当の言葉が必要な人間にとっては、言葉を選りすぐりして見た目綺麗なものを小洒落た手付きでトッピングする隙などもはや命取りである。その間に餓死してしまう。

 

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 切実に言葉が必要な人間は、自分が何を欲しているかも教えられないまま這いつくばっているのである(全身で闇を掻き分けるかのように)。明日のパンが要る。だから使えそうなものなら何でも使う。クソつきのタイプライター、クソつきのギター。クソつきのペン。機能に問題なければいい。そんなときに相応わしい言葉が「くそたれ!」であって何が問題か?もちろん、私が言いたいのは、何でもかんでも暴言を言ってもよろしいということではない。そうではなく、私は、例えその人が完璧に間違っていたとしても、「くそたれ!」を発する他ない状況の人々の側に付くということである。クソまみれの環境で生かされる人が 「くそたれ!」とは、まさしく真実を言い表しているではないか。 この言葉が敗北し淘汰され沈んでいく言葉だとしても、それが自らのクソでない限り、私はその者を擁護しよう。

 

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 言葉を扱うことは戦いだ。間違っても異性とセックスするための前戯になんて使わないでくれ。自分のカタルシス欲求のためにつまらない創作を生み出すことを比喩でオナニー作品と言うが、そんなのはもはや比喩ですらない。(オナニー作品しか作れないのであれば、それを超一流に高めるべきである。)本当の愛を語った詩にそんな後ろぐらさが必要だろうか?本物の愛の詩は天使のラッパみたいに遍く声で全てを焼き尽くす。今まで存在していた言葉がぬかるみであることに気付くからだ。その声色には何の虚飾も無い。そしてまた何かが始まる、勝利したのだ。セックスはその後に付いてくるかもしれないものでしかない。とにかく、戦いなのだ。言葉の神が声高らかに私たちに呼びかける(あるいは愛の神かもしれない)。戦え。そうして生き残った燦然と輝く言葉だけを我に捧げよ、と。私たちはその熱狂のさなかでありとあらゆるものに対して挑んでいく。あたかも長回しの戦場のように、私たちが生み出した言葉は溺れ、相殺し合い、皆壊れていく。このようにして生き長らえた言葉こそが物語を創るのだ。もちろん、その過程で何かを失うことは避けられない。本物の愛とは全てを失ってもなおそこから始まるもののことを言う。

 

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 この戦いは正規の手段であり、だからもしあなたが本物の言葉を、物語を、そして愛を得たいと願うならば避けられない。─じきに始まるさ。

 いっぽうで、「ていねい」を標榜したオハイソクラブの会員は全く異なる神を見出していた。ピカピカの光り物である。これがどうも稼げるらしい。そう、カラスの大好物だ。

 

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 ─繰り返し、繰り返し、見果てぬ夢の戦いはリフレインする。いつまで続くのだろう?この先に何がある?後悔しないだろうか?