小堀理のブログ

創作とエッセイ、またその断片

黒澤明作品の感想

 『蜘蛛巣城』『生きる』『羅生門』『酔いどれ天使』『赤ひげ』を鑑賞した。​​モノクロが主流の時代であるので、2003年生まれの私からしたら非常に古めかしい。cgなど無い時代だろうから、撮影技術や小道具も今と比べればなんとも牧歌的である。それは、エロ・グロな映像が苦手な私としては安心である。最近の映画は映像がリアルすぎてちょっと耐えられない。あまりにもリアリティがあるので、現実とフィクションとの区別はつきにくくなる。そんな映像を観すぎると精神衛生上よろしくはなかろう。ホラー映画やスリラーが好きな映画ファンはむしろ、そんな刺激を快楽と感じるのだろうけれど。

 だから黒澤明の作品は、私にとってはとてもリラックスして鑑賞できる。でもそれは、安っぽいと言いたいのではない。黒澤明の映画は、別の意味ではこの上なくリアリティに満ち溢れている。それは、登場人物の人格や人生への肉薄したリアリズムである。

蜘蛛巣城』は、だんだんとこれがマクベスを下敷きにしているのだろうというのがわかってくるのだけれど、話の展開のなかで欺瞞や猜疑心に翻弄される人々の心の汚らしさといったら、圧巻のディテールである。それと相まって役者の演技も凄まじい。身振り手振りや目線の動きに、人間のいやらしさが剥き出しである。とくに能や歌舞伎のような型の動きには張り詰めた緊張感と乱舞する不安と煩悩のダイナミックな​​​​表出をみた。

 『羅生門』も同じような理由で人間のいやらしさがえがかれていた。それでも最後はそんな人間の不完全さからの克服を通してなんとかハッピーエンドである。

 『酔いどれ天使』は切なくてやりきれない。荒んだ心の主人公が医師やその周囲のあたたかな支援や助言を通じて改心していくかと思いきや、最後にはやはり人間の愚かさというものに負けてしまう。

 黒澤明の一貫したテーマとして、人間の性悪説とそこからの克服というヒューマニズムがあったのだろうか。

 『生きる』がいちばん好きだ。余命を宣告された主人公がその絶望を克服して最後まで意義ある生をまっとうせんとする姿には心を打たれた。私がもっとも感動したのは、なんといっても演出効果の巧みさである。例えば、レストランで向き合う主人公とその元部下のとよとの会話を前景として、後景では裕福で若い少女の誕生日パーティが開かれるシーン。年老い死の近い主人公と、質素で地味な労働をしながら苦労した生活を送るとよ。裕福で希望に溢れんばかりの少女たち。それらが一つのカメラワークに収められてお互いに相対化される。様々な人生が存在し関係し合い交差することのえも言われぬ神秘に満ちている。それは喜びであり、切なさでもある。

 『赤ひげ』はそんな様々な人生と向き合いながら意義ある行いを実践していく物語で、挿話的に差し込まれる個々のエピソードがどれも美しかったけれど、教訓じみていてちょっと昭和くさいな、と思った。